日本富士スカウトクラブの沿革/ [EVER ONWARD]の集い

日本富士スカウトクラブの沿革と、 [EVER ONWARD]の集いについて、村山至さんにまとめていただきました。


日本富士スカウトクラブ(FUJI SCOUTS CLUB of JAPAN/略称:FSCJ)沿革 (2009.4. 1)

 FSCJ創始者の村山有は1905年(明治38年)12月24日アメリカのシアトルで生まれる。その後サンフランシスコで米国のボーイスカウト教育を受け指導者をしていた。

 1935年(昭和10年)に米国は少年団日本聯盟第三代総長の竹下勇海軍大将を団長とした在郷軍人訪米団を招待した。その時米国で一行を迎えたのが米国籍の村山有であった。

 1945年(昭和20年)8月の終戦後、村山は竹下提督から直接ボーイスカウトの再建を頼まれた関係で三島通陽と共に少年団の出身者を品川の森村学園に集め、「ボーイスカウトクラブの集い」(日本オールドスカウトクラブの前身)をGHQの許可が出るまで開いて基礎を作り、1947年(昭和22年)5月1日三島理事長、村山理事ほか5名の理事と総主事1名の8名で臨時中央理事会が構成された。

 1949年(昭和24年)2月12日にダグラス・マッカーサーを名誉総長、三島通陽が理事長となりボーイスカウト日本連盟が結成される。村山理事は関東選出地方理事となり、初代東京都聯盟理事長に推戴される。

 その後、村山は戦後から1968年12月31日没の年までボーイスカウトの各種事業・行事に関係した。(2005年12月24日発行の「村山有とボーイスカウト」冊子参照、日の丸行進、第一回全国大会、指導者講習会、ベーデンポーエル伝、日本スカウト切手協会、仏教章、FSCJ等の各種事業記載)

 村山は富士スカウトの永久記章を作るため、米国のNESAとも交流し、内田二郎、嘉悦一郎、尾崎忠次、臼井茂安などの各氏と検討していたが1968年(昭和43年)12月31日心半ばで亡くなった。

 翌年の1969年(昭和44年)日本オールドスカウトクラプ世話人の白橋龍夫氏が意思を継ぎ「日本富士スカウトクラブ」事務局を東京八丁堀の(株)白橋印刷の会長室に置いて若い富士スカウト取得者に正しいスカウト運動の歴史を知ってもらうために日本オールドスカウトクラブ(FSCJ)の会合にも奉仕をさせて諸先輩の話を聞かせる機会を作り富士スカウトの自己啓発を励む場所とした。

 日本富士スカウトクラブ発足当時の役員は会長に白橋龍夫、名誉顧問に尾崎忠次、客員に内田二郎、臼井茂安、島中俊雄、R.ウイドマン。会の運営諸経費は当初江東区深川の東京外国語学院の寄付金で賄った。

 1987年(昭和62年)6月から東京都中央区の青少年団体として登録し、諸施設無料利用を可能にした。

名誉会長
1969年(昭和44年)~1974年(昭和49年)嘉悦一郎
1975年(昭和50年) ~1996年(平成 8年)白橋寵夫

会長
1969年(昭和44年)~1974年(昭和49年)白橋龍夫
1975年(昭和50年) ~1990年(平成 2年〉尾碕忠次
1991年(平成 3年) ~1996年(平成 8年)白橋龍夫
1998年(平成1O年) ~2004年(平成16年)島中俊雄
2007年(平成19年)~現在 大石和夫

 日本オールドスカウトクラプ(OSCJ)への奉仕は1969年(昭和44年)から総会や例会にユニホーム着用で毎回数名が奉仕をした。会場は三鷹の日本連盟での開催が多かったが、後に総会は日連で他の例会は東京中央区の白橋印刷の会議室で行われた。当時の日本オールドスカウトクラブのメンバーは戦後の再建時のメンバーで嘉悦一郎、白橋龍夫、尾騎忠次、臼井茂安、細野寿美夫、浦田太一郎、渡邊昭、三島純、山口勝治、森田晃等の重鎮で貴重な話を聞ける場であった。OSCJ会員もボーイスカウトのユニホームを着たスカウトが受付やお茶汲み等をしてくれてる姿を見て喜んでいると感謝きれての奉仕で長年行っていた。

 奉仕時の日本オールドスカウトクラブ世話人代表は嘉悦一郎、白橋寵夫、島中俊雄、武井正光、吉田謙までで1969年(昭和44年)から40年近くのお茶汲み奉仕でしたが、OSCJの会合もホテル開催になり、事前の会場準備も無く古参会員は居なくなり、昔のスカウト運動の話を聞く事も無くなり、FSCJ会員より若い会員が増えてきて、奉仕はAV機器の操作(映像映写、ソング、ゲーム等)だけの奉仕に代わってきた。

 日本オールドスカウトクラブへの最後の奉仕は2009年(平成21年)2月の新春例会の開会セレモニーとBSソング、ピンゴゲームのAV操作等の奉仕で、当日も以前の様な貴重な話は無くOSCJへの奉仕はこの回で終了。

 現在、日本富士スカウトクラプの集まりは[EVER ONWARD]の集い(略称・EO会)として東京内幸町の日本プレスセンターピル9階にある日本記者クラブ会議室にて定期的に開催している。


[EVER ONWARD]の集い/(略称EO会) 2024年8月

 「EO会」の始まりは、赤坂・円通寺での日本富士スカウトクラブと日本オールドスカウトクラブの有志で食事等を取りながら戦前の少年団日本連盟時代の話や戦後の再建時の話などを聞かせていただける昼食会からスタートしました。昼食代等の経費はすべて円通寺住職の中里氏が負担されました。

 1969年(昭和44年)、日本オールドスカウトクラブの会合に嘉悦一郎世話人代表から日本富士スカウトクラブにユニホーム着用のスカウトの奉仕を依頼され、オールドスカウトクラブの総会、例会等の会場設営、受付、お茶汲み、片付け等の奉仕を長く続けて来ました。

 日本オールドスカウトクラブ世話人で赤坂・円通寺住職の中里顕勝氏が戦後のボーイスカウト再建時に東京都聯盟事務局が円通寺に置かれていたので今後も戦後のスカウト運動が始まった場所をボーイスカウトの会合で使用して欲しいと日本富士スカウトクラブの白橋会長に提案があり、日本オールドスカウトクラブ世話人の有志(浦田、中里、森田、高木、渡邊等)とFSCJ会員との「昼食会=EO会」として始まりました。

 円通寺は日本オールドスカウトクラブの会合や物故者法要などの行事で不定期に使用していました。

 中里住職が亡くなった後〈1989年(平成元年)7月24日ご逝去〉の懇談は白橋印刷の会長室、中央区の会議室等を使用してましたが、その後2000年(平成12年)頃からは日本記者クラブでの集まりが増え、2007年頃から大石会長の提案で講師を呼んでの集まりになり年2回の定例会となりました。初めは講座の後に飲食を用意しての会合でしたが、最近では講義と懇談になりました。

[EVER ONWARD]の集い(略称/EO会)
=「最善を尽くせ!」「限りなき前進!」を目標として、理想の峰を目指し自己研鎖(Self-Scouting)する

 その後、参加希望者が増えてきましたが、会議室の関係で人数は定員制となり、参加条件を厳しく決めての開催となりました。

 EO会の参加者については内規として『名誉スカウト、不二スカウト、エアーリフト・シーリフト計画派遣者、旧規定の富士スカウト、過去の講師、それらに準じた方で世話人会で認めた者』を基準にしています。

 EO会は年2回日本記者クラブで開催を基本にして、その他に臨時に見学会等をしてましたが、新型コロナウイルス感染騒動で2020年(令和2年)2月29日の定例EO会が開催寸前に中止になり、8月の定例会も中止されました。その後2020年(令和2年)10月31日にコロナ禍の中で臨時のEO会を開催しましたがそれ以降コロナ禍の関係で2021年(令和3年)から3年間EO会は開催されていませんでした。

 2024年(令和6年)3月16日に2013年2月以来、久米邦貞先達にお話をいただきEO会を再開しました。

 2024年(令和6年)7月6日にEO会開催、山口勝治先達について(19番目のきじ章受賞) (14名出席)。

過去のEO会での講師(円通寺等含・敬省略)
1980年(昭和55年)~2024年(令和6年)7月まで開催順
中里顕勝、白橋龍夫、尾崎忠次、臼井茂安、浦田太一郎、飯盛勲、島中俊雄、武井正光、森田晃、高木文吉、増田信良、阪下朝一、高畠潔、粕谷信夫、黒澤岳博、竹田誠二、鈴木高、三島昌子、矢島巌、平井忠正、久米邦貞、大石和夫、奥島孝康、山越章、渡邊宗男、鴨志田敬、石田文夫、竹田真也、牛山佳久、宮田勝、村山至、藤縄忠、柳茂久、五十野和男、福嶋正己、小町国市、山口英一、山口陽 等

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